事実と解釈は違うということ 山田詠美 僕は勉強ができない
どうもぴろしきです!
最近読書をしてます。youtubeをどうしても見てしまいがちなのですがやはり活字はいいですね、なんだかリラックスします(*´▽`*)
今回は前回読んでいた山田詠美著「僕は勉強ができない」から染みた言葉を積んでいきたいと思います。
どんな本かはこちらの記事をチェケラ!
今回のワンシーンは主人公吉田君のちょっとしたミスから始まる。
吉田君は高校生ながらにバーで働いている年上の彼女がいる(うらやまけしからん)
それもあって吉田君は学校で避妊具を落としてしまったのだ。
床に落ちている避妊具をみつけたのは生活指導の佐藤先生、放課後に吉田を呼び出して説教をする。
不純異性交遊などけしからん、だから成績が悪いのではないか、こんなことをして片親である母がかわいそうだと思わないのか。
様々なことを避妊具というものから連想させて決めつけてくる佐藤先生に吉田君は疑問を感じるのだった。
僕は小さい頃から相手が激怒すると妙に冷静にその人と向かい合う癖がある。
思い起こしてみると僕がそういう状態になるのは佐藤先生のような人間を前にした場合が多い。
つまり事実を自分勝手に解釈してそれの確認を他者を使って行う人々だ。
自分はこう思う、そのことだけは満足できずに、人の賛同を得ようとする種類の人間たち。
でもその人々は自分の論理を組み立てた結果以外のものを認めない。
どんな論理も隙間があるのを 信じようとはしない。
隙なく組まれたものがある時にはあっけなく崩れてしまうというのを知らないのだ。
某小学生名探偵が「真実はいつもひとつ」という、事実はいつもひとつなのである。そこに人の解釈があるだけ。
避妊具を持っているからといって不純な交友ではないかもしれないし、それが成績に紐付いているとは限らない。
起きている事実にどれだけニュートラルにとらえることができるかというのは本のなかだけでなく自分事としても考えていこうと思います('ω')